日本語のタイトルには、たいてい主語がありません。短くするために省きます。ところが省いた瞬間、文の中に空席ができます。 そして日本語では、その空席に思っていないものが座ってしまうことがあります。
次の2つを、続けて読んでみます。意味は同じです。
- 有名人には詳しく、無名な人には詳しくない
- 有名人のことは詳しく、無名な人のことは知らない
前者にも文法上の誤りはありません。それでも、前者だけがほんの一瞬引っかかる——という感覚を持つ人がいるはずです。実際、このサイトのある記事のタイトルで起きたことです。
空いている椅子は、2つある
この文が言おうとしているのは「LLMは、有名人については詳しい」です。ここには埋まるべき椅子が2つあります。
| 椅子 | 本来座るもの |
|---|---|
| 誰が知っているのか | LLM |
| 何について知っているのか | 有名人 |
タイトルでは主語のLLMを省くので、1つめの椅子が空いたままになります。 そして「有名人」は人なので、放っておくと1つめにも座れてしまう。 ここが引っかかりの出どころです。
助詞は、席の指定券
どの椅子に座るかを指定するのが助詞です。ところが、「に」だけは、券が2種類あります。
- 受け取る側の「に」:「彼に渡す」「子どもに聴かせる」
- 範囲を示す「に」:「歴史に詳しい」「機械に強い」
見た目は同じ「に」で、どちらの券かは述語が決めます。 「詳しい」は後者しか取らないので、最後まで読めば読みは一つに定まります。
問題は、定まるのが最後だということです。「有名人に」の時点では、まだ受け取る側の券かもしれない。しかも受け取る側になるのは、たいてい人です。 だから人を表す名詞が来ると、その読みが一瞬立ち上がります。
「歴史に詳しい」で同じことが起きないのは、歴史がものを受け取れないからです。変わったのは助詞ではなく、そこに置いた名詞が生き物かどうかでした。
「なら」で逃げると、別の椅子に座る
では「に」をやめればいい、とはなりません。
- 有名人なら詳しい
こう書くと、今度は「有名人という人は、何かに詳しい」と読めます。「なら」は席を指定する券ではなく、話題を持ち出すだけの言葉なので、名詞は空いている椅子——つまり主語の席——へ流れていきます。逃げた先に、より大きな穴がありました。
「のこと」を足すと椅子が埋まる理由
- 有名人のことは詳しく
これが成り立つのは、「こと」がものだからです。ものは知っている側になれないので、主語の椅子には座れません。受け取る側にもなりにくい。残るのは「何について」の椅子だけになります。
正しい券を引き当てたのではなく、座れない椅子を先に潰しているわけです。
実用上の見分け方
理屈は長くなりましたが、チェックは1行で済みます。
タイトルの中に「人を表す名詞+に」があったら、疑う。
主語を省いたタイトルで人を表す名詞に「に」が付いていると、読み手は述語に着くまで読みを保留します。本文なら前後の文が助けてくれますが、タイトルには前後がありません。 そのうえ、たいてい一度しか読まれません。
直し方は3つあります。「のこと」を挟む、「に関しては」にする、いっそ主語を書いてしまう。いちばん短く済むのは「のこと」です。
ちなみに、文法用語では
日常の判断に用語は要りませんが、調べ物をするときの手がかりとして置いておきます。
- 与格:受け取る側を指す形。「彼に渡す」の「に」
- 対象格:知識や能力の及ぶ範囲を指す形。「歴史に詳しい」の「に」。見た目は与格と同じで、どちらになるかは述語が決める
- 有生:生き物かどうか。同じ助詞でも、前に置く名詞が生き物かどうかで読まれ方が変わる
- 提題:話題を立てる形。「〜は」「〜なら」。席を指定しないので、名詞が空いた椅子へ流れる
まとめ
- 日本語のタイトルは主語を省くので、「誰が」の椅子が空く
- 人を表す名詞は、その空いた椅子にも座れてしまう
- 「に」には受け取る側と範囲の2つがあり、どちらかは述語まで読まないと決まらない
- 「なら」は席を指定しないので、名詞が主語の椅子へ流れる
- 「のこと」は、座れない椅子を潰すことで読みを1つに固定する
日本語は助詞で読みが決まる言語だと言われますが、正確には助詞と、そこに置く名詞の性質の組み合わせで決まります。同じ「に」でも、前が人かものかで変わる。タイトルという前後のない一行は、その差がいちばん表に現れる場所です。