Dance with Agents

壁は消えたのではなく、移動した——PythonとApp Storeのあいだで

エッセイ

かつて「AIをやる」といえば、Pythonを学ぶこととほぼ同義でした。numpyやpandas、scikit-learnやPyTorch——線形代数もCUDAも環境構築もわからないと、土俵にすら立てない領域でした。

いまは違います。LLMを「使う」だけなら、チャットUIかAPI呼び出しで完結します。管理人自身、この変化に救われた1人です。エンジニアであっても、機械学習の領域には簡単に手を出しにくかった。RAG(自分の資料で専門特化のエージェントを作るで書いた仕組み)のような、以前ならベクトルDBの選定からチャンク分割の戦略まで自分で設計する必要があった作業も、いまはLLMに頼めば実装まで含めて提案してくれます。仕組みが分からないままエージェントを作っている人も、確実に増えました。

参入障壁が壊れた、良い面と危うい面

これは技術史的には既視感のある変化です。アセンブリから高級言語へ、オンプレからクラウドへ——「下のレイヤーを理解していないと触れなかったもの」が「宣言的に扱えるもの」になっていく流れの、最新版といえます。

ただ今回はやや特殊で、下のレイヤー(モデルの学習・数学的な仕組み)と上のレイヤー(エージェントとして動かす)の距離が、他の抽象化よりかなり遠い。クラウドはインフラの知識がなくてもネットワークの概念くらいは薄く必要でしたが、LLMエージェントは「なぜ動くか」を一切知らなくても「動くもの」が作れてしまいます。

参入障壁が壊れて裾野が一気に広がったのは良いことです。一方で、仕組みを知らないまま本番で使い、変な挙動が起きたときに何も手が打てない人が増える、という危うさもあります。

管理人自身はエージェントの内部を作り込む側ではなく、自分の理解の延長線上にあるものをひたすら作る側です。サーバ管理などはかなり手伝ってもらうようになりましたし、むしろ曖昧だった自分の理解を、エージェントに聞きながら常に埋めて進んでいます。「理解しないまま任せる」のではなく、「理解の範囲を広げる道具として使う」——リスクは自分の理解の範囲内にとどまる、という感覚です。

それでも手が出ていない領域——スマホアプリ

その管理人が、まだ手を出せていないものがあります。スマホアプリです。

技術面のハードルは、率直に言ってほぼ消えました。Swiftが書けなくても、Javaが書けなくても、エージェントに頼めば実装は進みます。ではなぜ作れていないかというと、技術ではなく周辺の手続きが理由です。

  • Apple Developer Programへの登録。年間$99の契約、個人でも本人確認書類の提出が要る
  • App Storeの審査。ガイドライン自体は読めば把握できますが、人間のレビュアーが実機でテストし、UIの完成度やプライバシー説明の妥当性を主観込みで判断します。リジェクトされると理由が曖昧なまま再提出のループに陥ることもあります
  • Google Playの新規アカウント要件。個人開発者が新しく登録すると、本番公開前にクローズドテストを一定期間・一定人数のテスターにやらせる必要があります

プライバシーポリシーの文面や年齢レーティングの申告はLLMに書かせられますが、「その通りに実装されているか」は審査側が実機で見てきます。技術の実装コストがゼロに近づいた分だけ、この「人間であることを証明させる」プロセスの存在感が、相対的に際立って見えるようになりました。

「LLMのせいで面倒になった」のか、調べてみた

ここで「LLMの台頭でやばいアプリも量産されるようになったから、プラットフォーム側が手続きを面倒にしている面はありそう」という仮説が浮かびました。もっともらしく聞こえたので、実際に時系列を確認してみました。

結果は、思ったより入り組んでいました。

Google Playの新規アカウント向けクローズドテスト要件(当初20人・14日間、現在は12人に緩和)は2023年11月の導入で、目的は「ゴミアプリ・クローンアプリの公開を防ぐ」という一般的なスパム対策でした。ChatGPT登場(2022年11月)の1年後ではありますが、LLMでアプリを量産する文化が本格化したのは2024年以降なので、時系列としてはこの規制の方が先にあり、LLM量産はその後に乗ってきた格好です。

一方、もっと直接LLMを名指しした規制は後から来ています。ASO Worldの報告によれば、Google Playは2025年にAI生成コンテンツを独立したポリシー区分にし、「AIアプリは不快なコンテンツを生成してはいけない」「AI出力のラベリングを明確に」といった規定を追加しました。TechCrunchの記事では、2025年だけで175万件の違反アプリがAIによってブロックされ、開発者アカウントも8万件超がBANされたと報じられています。

つまり「LLMの量産が審査を厳しくした」という直感は、後半(2025年のAI専用ポリシー)については当てはまりますが、前半(2023年のテスター要件)は順番が逆でした。今のハードルは、元々あった一般的な審査の壁の上に、LLM量産に対する後追いの規制が二層目として積み重なっている、という構造のようです。

壁は移動しただけで、消えてはいない

Pythonという技術的な壁は、確かに低くなりました。ただ、その先に別の壁——今度は制度的な壁——が待っていた、というのが今回たどり着いた景色です。技術の実装コストがLLMでほぼゼロになったからといって、「誰でも量産できてしまう」ことへの防波堤として審査と契約のプロセスが残っている以上、壁そのものがなくなったわけではありません。

LLMがコードを書く速度と、審査キューにいる人間の速度がまだ噛み合っていない。管理人がスマホアプリにまだ手を出していないのは、技術力ではなくこのミスマッチのせいなのだと思います。

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